すべるように飛ぶカモメの声をききながら
 家並みのむこうの海を見渡すと きまってわたしの心に汽笛が鳴りひびく
貧しかった少年のころ おとなにまじって 網いっぱいのブリコたたき
モッコかつぎ 鰊つぶし 鰊つなぎ 鰊干し 涙をこらえたたそがれ
かせぎちんにもらった鰊をリヤカーにつんでの帰り道
瀬越の踏み切りでうごけなくなって迫ってくる機関車にせかされながら死ぬほどの力で押し上げた
恐怖がよみがえるからどんよりした涙色の鰊曇り
海岸を白濁させる群来浜辺にとびちる ヤン衆たちの荒々しい足と声
まだ明けやらぬ港の水面に沈みそうな汲み船の歌声
海底からわくように渦巻く鰊の群れ 街中に配られる紫ががった銀鱗

すべては遠い 昔語りになってしまったけれど





百年以上続いた留萌の鰊漁

鰊の群来 建て網と刺し網 モッコしょい
鰊漁が豊漁時代の瀬越浜
大漁の時は鰊を船に積みきれず、
沖で捨てたこともあった。
鰊を獲る方法には建て網と
刺し網の二つがあった。
沖から船で運ばれてきた鰊は
歩み板を渡してモッコで納屋へ
運んでいた。


留萌地方で大々的に鰊漁が解禁されたのは、天保11年以降のことである。
蝦夷地では初め一般の漁民の鰊漁は松前地と呼ばれた福山、江差地方に限られていた。
この鰊漁のお陰で「江差の春は江戸にもない」といわれた繁栄を誇っていた。
しかし、この繁栄を極めた鰊漁も安永5年には福山地方で不漁となり、天明2年からは
江差地方が不漁となった。このため松前地で鰊漁を営んでいた漁民は松前地から奥地の蝦夷地に
出稼ぎをするようになっていく。元禄期以前は歌棄、磯谷あたりまで出稼ぎし、
寛政5年頃までには石狩まで漁民の出稼ぎの範囲が拡がっていった。
これを鰊を追うように蝦夷地に出稼ぎしたので追い鰊と称した。




当時の蝦夷地では松前地を除いては各場所に場所請負人がおり、彼らがアイヌの人たちを
使役して漁業を営んでおり、勝手に場所で漁業を営むことは一般の漁民はできなかった。
それで場所請負人は出稼ぎ漁民に鰊漁の許可を与える代わりに漁獲物の2割を漁民から徴収していた。
これを「ニ八取り」といった。このように追い鰊の漁民がだんだん奥地に出稼ぎをするように
なってきた。これには請負人側にもそれを許す下地があったのである。
つまり・場所請負人たちは各場所のアイヌの人たちを労働力として使ってきたが、過酷な労働と
和人の持ち込んだ天然痘などの疫病により、アイヌの人たちの数が減ってきたという理由があった。
また、天保年間の大飢餓により奥羽地方が大きな被害を受けて蝦夷地への移住者が
増えたこともその理由の一つであった。



留萌は鰊漁とともに栄えてきた。

鰊漁の船 鰊の大漁 鰊の加工
鰊漁に使われていた舟は
無動力の舟であった。
最盛期の鰊漁は留萌の
経済の殆どを支えていた。
もともとは鰊を粉にして
肥料として内地へ運搬していた。


天保11年に日本海北部の場所請負人であった栖原家は雄冬岬以北の出稼ぎを認めてくれるように
松前藩に嘆願書を提出し、これを認めてもらった。これ以後、増毛や留萌地方への一般の漁民の
出稼ぎが始るのである。留萌ではその4年後の弘化元年に初めて礼受に佐賀平之丞が魚場を開いたのである。
これが本格的な留萌の鰊漁の始まりである。


網おろし 沖あげ音頭 やん衆、ヤトイ、神様
鰊漁の時期が終わると日を
選んで網おろしの祝いをした。
やん衆は働くとき歌をうたって
呼吸をあわせ力を出し合った。
多くは東北や箱館方面からの
雇われた人たちだった。


この後、昭和30年頃まで留萌は
鰊漁で繁栄したのである。その佐賀平之丞が魚場として開いたシンボルというべき
佐賀番屋は今でも礼受地方に見ることができる。






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